2011年11月19日

震災復興支援誌『【縁】―ENISHI』

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表紙には、ひとこと。「ありがとう」。10月25日に創刊した、震災復興支援誌『【縁】―ENISHI』。発刊の目的は、こう記されている。

「【縁―ENISHI】は、これから10年、20年と続く復旧復興への支援と、未来の子どもたちに伝えるべき経験と教訓を残すため、震源地に最も近かった宮城県から、創刊します」

誌面には、気仙沼市・南三陸町・石巻市、女川町・東松島市・塩竃市・松島市・多賀城市・七ヶ浜町・仙台市・名取市・岩沼市・角田町・亘理町・山元町・大崎市・登米市・加美町・蔵王町といった宮城県各地域での、復興に向けた記事が掲載されている。活動を再開した企業のインタビューが中心で、ボランティアリーダーや行政の担当者の声も多く載っている。

印象に残ったことばを並べてみた。

・流れてきたというより、まるでミサイルが撃ち込まれたように突き刺さっていました。 ――気仙沼市 磯谷水産 社長 安藤竜司

・店の看板がほぼ無傷で残っていたんです。その時『仕事をしなくては』と強く思いました。 ――気仙沼市 角星 社長 斉藤嘉一郎

・被災地から学ぶことは無数にあると思います。 ――南三陸町 ホテル観洋 女将 阿部憲子

・ほんの300メートル先では町一つが無くなったというのに。 ――石巻市 石巻日日新聞 報道部長 武内宏之

・壊れた店を閉じるにしても借金、継続するにしても借金。それなら、再開の道を選択しよう。 ――石巻市 サルコヤ 代表取締役 井上晃男

・女川町には、なにもなくなりました。震災以前の女川は、人口1万人ほど。町に残っている人は3000名ぐらい。 ―― 女川町 高政 代表取締役 高橋正典

・(被災状況を連絡することに対して)憐れみを乞うようで嫌だった。 ――東松島市 大高森観光ホテル 主人 櫻井邦夫 

・(3月11日、避難所に戻る帰り道で)星、超キレイ。 ――仙台市 小関知河

・自社の工場が復旧しようと、前後の工程が動かなければ製品はできない。 ――仙台市 阿部蒲鉾店 社長 阿部賀寿男

・みな"スイッチが入る"という感じでしたね。従業員たちは日頃、"本当に喜ばれるサービスって、なんなのだろう"と、ときに悩みながら働いているはずなんです。でも、この震災が"これなんだ"と気づかせてくれた。 ――仙台市 藤崎 営業企画部 小笠原順子

・いまでも余震がありますが、朝に強い地震があった日はどうしても客数が減ってしまうんですよ。 ――仙台市 マブチファブリックス 店長 八木沼善弘

・その方が『いつもみたいな映画が見たい』っておっしゃって。そのとき、ああ、こんな非常時こそウチらしい"日常"が必要とされているんだな、と。淡々と、これまで通りのラインナップで上映を続けることが"震災前の日常"を取り戻すことにつながるのでは、と。 ――仙台市 櫻井薬局セントラルホール 支配人 遠藤瑞知

・そんなことをいうヒマがあったら手を動かしてやれることをやればいい。その代わり、できることしかしないよ。"毎日きて"って言われても、こっちも店があるからね。 ――仙台市 カトマンドゥ 店長 サンジブ・アリアル

・震災から日が経つにつれて、きっと、あの怖さも忘れちゃうんだよね。 ―― 岩沼市 ホテル原田 原田善征

・震災で山元町はもう駄目だ、何も生産できないのでは、などという誤解はなんとしても避けたい。 ――山元町 岩機ダイカスト工業株式会社 常務取締役 横山廣人

・営業を再開してしばらくは入園客がまばらだったが、そのほとんどが被災地からだった。 ――登米市 チャチャワールドいしこし 支配人 千田勲

・避難者の多かった南三陸町とは町ぐるみのご縁ができました。これをきっかけに"海の町と山の町"でさまざまな交流を図っていければ。――登米市 中新田交流センター 所長 鈴木啓悦

・もし大津波警報が「危ないからすぐに逃げてください」と避難行動を促す切迫感ある声だったとしたら、「昭和三陸の規模を超える津波が来ています」と伝えていたら、住民のみなさんの行動はまったく違ったものになったはずです。 ――東北大学大学院経済学研究科 教授 増田聡

・(被災地の人たちにやれることは何か?という質問に)新しいビジネスをやって、ここでもう一回生きていこうという普通の人たちを支えていくことも大切ですよね。方法はいろいろありますが、仕入のルートを共有してあげるとか、販路拡大のお手伝いをしてあげるとか、身近なところならトンカチと材料をもって集まって改装のお手伝いをしてあげるとか。――東北大学大学院工学研究科 教授 小野田泰明

・全てがなくなった今が、大きなチャンスなのかもしれない。――女川町 復興対策参事 柳沼

・役場の職員が口にしていたのは、津波で流された泥まみれのスナック菓子だった。 ――山元町 副町長 平間英博

・この前、工場の煙突から煙が出てるのが見えて、その煙さえ愛しくなりましたよ。 ――石巻市 佐々木洋

・(沖縄への移住を考えて)宮城からのお客さんに東北弁で沖縄のガイドもしてみたいなぁ。あっ、東北の祭りも沖縄に紹介したい。だから、沖縄のことをもっと勉強して、宮城と沖縄の文化交流の架け橋になりたい。必ず、なって見せますよ。―― 気仙沼市 陶芸家 三浦正人

・「ありがとう」って言われ慣れてないから、ついうれしくて、また来たくなる。要は単純なんですよ、みんな(笑)。――HASH BALL ボーカル兼リーダー 成田智浩

・たくさんの思いを込めて、「ありがとう」の言葉を贈ります。いつか、笑顔で「ありがとうございました」と直接、伝えることができるその日まで。被災地を忘れないでください。――仙台市【縁】発行人 高橋浩




2011年11月18日

和綿倶楽部

引き続き「綿」のはなし。

昨夜、虎ノ門の森バールで「和綿倶楽部」の製品発表会がありました。


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こちらが、"和綿"でつくられた、和てぬぐい・ガーゼマフラー・ハンドタオル。思ったより厚みがあり、しっかりした手応えがあります。じつは、和綿の製品化は戦後初めてかもしれない。それぐらい、珍しいことなんだそう。

和綿は、繊維が短く、太い品種。この和綿から紡いだ糸や布には独特の弾力と厚みがあり、湿潤な日本の気候に適って、夏は湿気を吸い、冬は空気を含んで温かい性質があります。しかし、加工の難しさから、明治には中国産の綿花に取って代わられました。いまでは、ほとんど100%を輸入に頼っています。

和綿を残したい。そんな思いで、文字通りの「タネ」を配って歩いた人がいます。花嫁わた株式会社の三代目社長、吉村武夫氏。1999年に、氏から一抱えの「タネ」を受け取ったのが、和綿倶楽部の指導者、村井和美さんでした。


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「タネは生きているんだから、捨てるわけにはいかないでしょ」
村井さんの活動は"畑をさがす"事から始まりました。いまは茨城県つくば市に2反の畑を借り、東京から月に一度、二〇人以上の有志が集まって農作業を手伝うまでに拡がっています。収穫量は年に200kg前後。すべて手摘みのオーガニックコットンです。

そして今年、その和綿を使って、500セットのてぬぐいが誕生しました。端が織られておらず、切りっぱなし。ほつれた所は、はさみで切るのが江戸時代からの使い方なんだそう。洗うと色落ちするので、その風合いを楽しむべし。

「これこそが、和てぬぐいなんです」と、製造に携わった池内タオルの池内計司社長が、嬉しそうに説明していました。



posted by 瀬戸義章 at 17:17 | Comment(0) | その他 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年11月17日

「綿」のボジョレーヌーボー

きょうはボジョレーヌーボーの解禁日でした。たおやかな味でしたね。


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ワインだけでなく、「綿」にも「ボジョレーヌーボー」もあるようです。その名も、「コットンヌーボー」。風力発電で生産した"風で織るタオル"で有名な池内タオルが、その年にとれたオーガニックコットンを使って作り上げたタオルです。そのコンセプトは「ワインのように愉しむタオル」。


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パッケージもそれっぽいつくりです。

オーガニックにこだわるならば、均一な工業製品としてつくるのではなく、違いを楽しめるようにつくろう、という狙いがそこにはあります。毎年、同じ品質であることは"不自然"なのですから。

「2015年ものはいいよね、とか。そんなふうにタオルを楽しめたら面白いんじゃないでしょうか」
とは、企画者であるデザイナー、佐藤利樹氏のコメント。

もっとも、池内計司社長は、
「いや、綿の品質がブレようが、それ以上に、作り方を向上させる。毎年良くなるからこその違いにしてみせる」と笑います。

綿はタンザニアで取れたものをフェアトレードで輸入し、現地の所得向上にも繋げています。2012年分の収穫は終わり、もうすぐ日本に届きます。2月には色とりどりのタオル「コットンヌーボー2012」がお目見えする予定。果たして、どんな出来でしょうか?


posted by 瀬戸義章 at 23:33 | Comment(0) | その他 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする