フィリピンのゴミは、カラフルだ。拾い集めたその多くは、スナック菓子の袋や、洗剤の一回分パックだった。道でよくみかける鉄格子の張られたキオスクで、買い求めた物だろう。逆にカンボジアのゴミはモノクロだ。捨てられているものの大半は、透明な、砂にまみれたビニル袋。タイのゴミはストローだ。コンビニでペットボトルを買っても、屋台でジュースを買っても、必ずストローがついてくるのだから。東ティモールのゴミは、空き缶やペットボトル。他の国なら屑屋が見過ごさないものだが、そのままになっているのは、輸送費が合わないから。
ゴミは、情報である。
『東京ゴミ袋』は、東京の街にゴミという「補助線」をひいて、人びとの暮らしを浮かびあがらせたルポルタージュだ。出版されたのは、一九八八年。相撲部屋、横田米軍基地、ヤクザの事務所、来日した中国残留孤児の宿舎などから出されたゴミを回収し、中身を調べていく。
きっと糖尿病を煩っている「力士」が捨てた、インスリンの注射器。
日本の夏に悩まされたのか、「中国残留孤児」が捨てた、虫さされの薬"ムヒ"。
源氏名を考えるのに使ったであろう、「風俗嬢」が捨てた"え"と読む漢字をすべて書き出したメモ。
大組織に属する「ヤクザ」が捨てたのは、年賀状。その組織の構成員の名簿付きだ。三人の名前の脇には"一連の抗争にて服役中"と但し書きがある。
商法に長けた「宗教法人」が捨てたのは、信者の熱意を確かめるアンケート用紙。
ゴミの断片が、こんなにも生々しく二〇年前以上まえの暮らしを浮かびあがらせるとは。
"覗き趣味"な面もあり、がいまだったらプライバシーの問題でとてもできそうにない企画だけれど、いまだったらどんな暮らしが浮かんでくるのだろう。
そういえば、表参道を掃除したときに、壊れたiPhoneを拾った。