2011年09月20日

被災地で掘り出された希望たち

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松ぼっくりをくしゃっと踏んだ。

灯りがつかない家の中は、昼でも薄暗かった。畳がめくり上がり、タンスが転がり、茶碗が散乱し、あらゆるものが泥にまみれていた。表面には枯れた松の葉が堆積している。防風林の松の木がどれだけ流されたのか、これだけでも分かるというものだ。

5月13日、仙台市若林区蒲生で、家屋清掃のボランティアに参加した。

玄関の段差を台車で越えられるように畳を橋がわりにして、泥をシャベルでかき出していく。洋服ダンスは水を吸って着物が膨れあがり、思うように引き出しがあかない。粉塵が舞う中、作業を進めていく。7人がかりでも重労働だ。

ごめんなさいね。ボランティアをお願いしちゃって。自分だと、気が滅入っちゃって体が動かなくて。お昼休憩時、その家の奥さんが申し訳なさそうに言う。いやいや、気にせずになんでも言ってください。そう答えて、作業を続ける。

泥のなかから冊子をみつけた
アルバムだった。

写真があったことを告げると。ふっと、奥さんの表情が和らいだ。

「ありがとう。ほかにも見つけたら教えてくださいね。思い出が無くなるのが、いちばん辛いから。」
そういって彼女はだいじに写真を並べて、乾かしはじめた。


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南三陸町の及川善弥さんも、泥のなかから希望を見つけた一人だ。彼は、南三陸町志津川で130年続く老舗かまぼこ店の6代目。

家も工場も店舗も事務所も、すべて流された跡地で、一本の包丁を見つけたという。かまぼこ作りに欠かせない、自分の名を刻んだ、愛用の包丁。震災後、見つかった唯一の商売道具だ。その日は奇しくも、祖父の命日だった。

「まだやれってことかな」

彼は今、仙台市にアパートを借り、タラコなどを仕入れて、青葉区の青空市場に出展している。


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その青空市場"マルシェ・ジャポンセンダイ"では、「希望の缶詰」が販売されている。それは、津波被害をうけた場所から"発掘"された高級サバ缶だ。

石巻市で50年にわたり、海の幸を缶詰に加工販売してきた「木の屋石巻水産」。津波により工場の施設は流されて、瓦礫が詰まり、使える状態ではなくなった。

だが、工場の瓦礫の下に、大量の缶詰が埋まっていた。

毎年秋に石巻港で水揚げされる大型の鯖"金華さば"だけを使用した、こだわりの缶詰だ。ボランティアの協力も得て、10,000缶以上の缶詰を拾った。震災当初、まだ物資が行き届かないころは、この缶詰が避難所の元気の源になった。いまは、マルシェをはじめ、各地で「希望の缶詰」として販売されている。衛生面から、もともとのラベルはすべて剥がされ、徹底的に洗浄されている。

「だからどの味が当たるかは、お楽しみです」

タグにはこう書かれていた。

「この『発掘缶』には、
・震災の記憶から立ち直り、前を向いて歩きたいという石巻の人々の想い
・工場はなくなってしまったけど、一歩ずつ、少しずつでも復興を進めていきたいという私たち社員全員の想いが詰まっています。』

環境省によると、災害廃棄物の撤去率は、9月15日時点で55%。
あとどれだけ、希望を掘り出せるだろう。



2011年09月19日

イチゴの復興

嬉しいニュースを見つけた。

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イチゴの郷 復興へ一歩 国道沿い仮設店舗で再開 山元
「東日本大震災の津波で流失した宮城県山元町の農産物直売所『夢いちごの郷(さと)』が、同町浅生原下宮前の仮設店舗で営業を再開した。関係者は『復興への一歩を踏み出せた』と感慨深げだ。」(河北新報 2011年09月18日日曜日)
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「山元町のイチゴはもう駄目だと思われるのが、いちばん怖い。人が来なくなったら終わってしまう」

この記事に登場する、"夢いちごの郷友の会"会長の菅野孝雄さんに、そんな話を聞かせてもらったのは、7月14日のことだ。

亘理郡山元町は宮城県の東南端に位置する。とちおとめの名産地で、イチゴ農家が100軒を超える。その農家のほとんどは、海岸沿いに並んでいた。

菅野さんは、3月末から町が借り上げた空き家に家族と暮らしている。幸いにして家族8人はみんな無事だった。お茶の間の隅には、新聞紙を敷いた床に高さ50cmほどの仏像が置かれていた。一ヵ月前に、ガレキの中から見つかったという。

「ほとんどが流された。苗も流された。直売所も流された。売上3日分も流された。車もみんな流された」
3月11日以降、海岸から1.5km以内の地域には、新築の建物が残存する程度で、ほとんどが流出している。山元町の全壊戸数は2,181棟。死者614名。9割以上の農家が壊滅した。

もともと、イチゴ畑は水田だった。平成11年、農地の基盤整備の一環で、水田を畑に転回するようにと国から指示があったのだ。

なにを栽培するか。野菜だけでは売上を立てる事が困難だ。イチゴだと、わざわざ買いに来てくれるのではないか。畑の中に、直売所を立てた。試行錯誤をしてイチゴを育て、イチゴジャムやイチゴアイスの製造販売をはじめた。土耕から高設栽培に切り替え、立ったままの収穫を可能にして、イチゴ狩りができるようにした。9人ではじめた組合員が、50人を超えた。そうやって「夢いちごの郷」をつくってきた。

だから、
「オレにはイチゴ作ることしかできねえし」
やらなければ気持ちが折れると思った。

近隣は危険区域に設定され、家やビニルハウスを建てていいか、まだ線引きがされていない。それでも、農地を、仮設で営業できる用地を、自分たちで探した。

イチゴは低温環境にさらし、かつ、短日処理と窒素分を減らすことで、花芽に分化する性質を持つ。そのための冷蔵施設も流されてしまったが、平均気温の低い蔵王に土地を借りて、そこで1,000本の株を育てた。

仮設店舗にはリンゴやナス・ピーマン・タマネギなど、町内で栽培された青果類や農産加工品を店頭に並べている。11月にはイチゴの販売も始める予定だ。


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「営業日は10月末までは金、土、日曜日と祝日だけで、11月以降は毎日営業する。時間はいずれも午前9時〜午後4時。連絡先は夢いちごの郷0223(37)1115。」とのこと。
…………せっかくなんだから、記事に住所も書けばいいのに。

2011年09月18日

ゴミ発電あれこれ

「廃油を使った発電機がつくれないか」

仙台清掃公社の渡邉浩一理事長は、ヤンマー社にそう提案していると教えてくれた。カマボコ屋などの水産加工業が製造過程で生じる廃油を使って発電し、事業の電力に充てる。発電自の熱も製品加工に活かせる。そして、いざというときの非常用電源にもなり得る。

仙台清掃公社は、仙台市で家庭ゴミの収集運搬を担う協業組合だ。震災の翌日から、生き残ったトラックと備蓄燃料をやりくりして、仮設トイレからの屎尿や、病院からの医療ゴミの収集運搬に駆け回った。その経験から生まれたアイデアだ。

8月23日、自然エネルギー由来の電気の買取を、電力会社に義務づける『再生エネルギー法案』が可決された。エネルギーの在り方が、大きく見直されようとしている。最も注目を集めているのは、太陽光や風力による発電だが、エネルギーの地産地消を考えるうえで欠かせない発電方法に「ゴミ発電」がある。

日本では、ゴミを燃やす。衛生上の問題から焼却が望ましいというゴミもあるが、燃やす大きな理由は、埋め立てる量を減らすため、である。灰にすることで、体積を5〜10%にまで減らすことができるのだ。1,300℃以上の高温で廃棄物を処理するガス化溶融炉では、灰をさらに溶かし、体積を減らすことすらしている。この熱エネルギーを、活用できないかというのが方法の一つである。ゴミを燃やした熱で湯を沸かし、蒸気タービンを回すことによって発電を行う。原理は単純だが、排ガスによって炉が損なわれるため、効率は火力発電所と比べて落ちる。

じつは、東京23区にある20ヵ所の清掃工場には、すでにゴミ発電施設が設置されている。その発電能力は、合計で最大約25万キロワットと中規模の火力発電所に匹敵するそうだ。東京二十三区清掃一部事務組合の報告によれば、4月〜6月の平均実績で、15万7千世帯分の電気供給している。

こうしたゴミ焼却発電施設は、全国に298施設ある(環境省『日本の廃棄物処理』平成19年度版より)。総発電量は年間約7,100GWhで、約200万世帯の一年間の電力をまかなえるそうだ。

ゴミを直接燃やす以外にも発電する方法ががある。

ロンドンから北西へ200kmほど走った街、カノックには、食品ゴミを使った発電所がある。「食べ残し」をタンクに集め、発酵させて生じたメタンガスを利用するという仕組みだ。メタンガスを発生させた後の残余物には、様々な栄養素が豊富に含まれており、肥料としても使うことができる。

意外なところで、イラクの米軍駐屯地でもゴミ発電機が使われている。

重さ約4トンのこの機械は、書類や残飯、そして弾薬の包装屑などを使って電気を起こす仕組みとなっている。紙やプラスチックを圧縮してペレットにした後に熱処理し、低品質のプロパンを取り出す。生ゴミは発酵させてエタノールにする。このガスとエタノールをあわせた燃料で、発電機を動かす。カタログスペックでは、最大55KWhの発電能力を持つそうだ。駐屯地のゴミ処理の手間が省けるし、なにより、燃料輸送の回数が減れば、敵に狙われる心配が少なくなる。




そうそう。映画『バックトゥザフューチャー』に登場するタイムマシンの燃料はプルトニウムだったが、『2』では生ゴミになっていた。2015年を舞台にした作品だ。あと4年でどこまで近づけるだろう。


2011年09月17日

支援物資と余剰物資と

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3月18日、4トントラックの助手席に乗って、救援物資を運搬を手伝った。ガラガラの東北自動車道を降りて、最初に向かったのは福島県の白河市。灯油の一斗缶などを手渡した。代わりに、思ってもみなかったことを言われた。

「毛布が余ってるから、持って行ってくれませんか?」


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広島県から届いた箱入りの毛布、およそ100枚を空いた荷台に積めた。

次に向かったのは、宮城県塩釜市。支援物資は清掃局の倉庫に一時保管されていた。ホワイトボードには「横浜市」「神戸市」といった物資の提供先が書かれている。食料や水、下着、生理用品などを届ける。毛布は、いらないと言われた。

最後に向かったのは、宮城県の多賀城市。市の庁舎の脇にテントが張られ、そこに救援物資が積まれている。1週間家に帰っていません、と、それでも毅然としたたたずまいをしている50代の男性職員に物資の内訳を説明する。毛布も持ってきたのですが、と伝えると、一瞬、微妙な雰囲気に。若い職員の発言を目で押さえて、ありがとうございます。せっかく届けてくださったのだから、というお礼とともに受け取ってもらった。

外務省のwebサイトに、各国からの支援物資一覧が載っている。届いた毛布の数は、合計で約22万枚だ。内訳は、中国、台湾、モンゴル、インド、カナダ、タイ、インドネシア、フランス、シンガポール、韓国、ロシア、ウズベキスタン、デンマーク、リトアニア、ベネズエラ、ネパール、イスラエル、バングラデシュ、トルコ、スウェーデン、チリ、オーストリア。

資料には受入日も記載されていた。3月14日から5月26日のあいだ。4月や5月に届いたそれは、いまどうなっているのだろう。


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仙台市若林区の避難所の一つ、「サンピア仙台」が閉鎖したのは、7月24日。6月中に退去した人には、水やインスタント食品などの「支援物資セット」を取りに来て欲しい、という連絡があったそうだ。それでも余った分については、各避難所のものをまとめて、一つの倉庫に保管するらしい。

「災害支援物資の備蓄・物流計画ガイドライン検討会報告(消防庁・平成18年6月)」では、「緊急物資等の調達が終了した時点で、余剰分が生じた場合には、地方公共団体の独自の裁量による有効活用を検討する」と提案されている。

実際に石巻市などでは「支援物資バザー」が何度か開催された。また、2004年10月に発生した新潟県中越地震のときは、余剰物資は保管された。そして、2ヵ月後に発生したスマトラ沖地震や1年後のパキスタン地震の被災地へ、毛布やマットレス、タオル、古着、飲料水などが送られた。

岩沼市の避難先で、森広直さんが感動した手紙はこんな内容だった。
「阪神を経験したものです。必要だと思われるものを送ります。もしあなたが足りていれば、周りの人に聞いてみてください。必要なひとがいなければ、捨ててください」

福島県でリサイクルを営む東都クリエート社は、被災地の余剰物資を集め、外国に送り、リユースしている。すでにいわき市で実績があるそうだ。


「支援」とは他人を支え助けること。「救援」とは災害・危険などにあっている者を助けて力づけること。助けることが本義であって、物資を使わなきゃいけない、保管しておかなきゃいけない、というわけではない。送り届けてくれたその気持ちは受け取って、物は物として活用していくべきだろう。


2011年09月16日

復興への向き

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岩手県・宮城県・福島県の23自治体の復興案を眺めた。

規模が規模だけにに、どこも具体化するのに時間がかかっており、「方針」「提言」「ビジョン」の段階がほとんどだ。宮城県でも、8月26日に素案が策定されたばかり。9月末の完成を予定している。

現段階での復興への向きに関して、県ごとに違いを感じたので、まとめてみる。

まずは岩手県。ここはどの自治体も「自然によりそう」という発想が主になっていると感じた。堤防だけでは災害を防ぐことはできないので、ハード・ソフト両面で減災をしていく。再生エネルギー、自然エネルギーへの活用を推進する。県の特徴である農・水産業を活性化する。津波体験の文化的継承をしていく。といった内容が多い。原発がもともとなかったからか、宮城や福島と違って国に対するメッセージは少ない。

岩手県山田町の発想は、クールだと思う。
「今回の大震災では、山田町の名前や映像が全国に発信され、知名度が一気に向上しました。これをチャンスと捉え、山田町のPR、優れた水産加工品の開発、各種イベントの開催等の総合的なブランド戦略を展開し、観光業の再生・発展の足がかりとします。特に、今回の大震災で支援に駆けつけて頂いたボランティアをはじめとする多くの人々とのつながりを大切にし、復興した山田町に再び足を運んで頂けるよう努めていきます。」

宮城県は「県勢の復興を」という意志を感じた。思いきった手法を取り入れ、復旧から復興へと進んでいく、国に対しても申し入れをしていく。といった具合に。また多くの自治体が復興を10年スパンでとらえているのに対し、仙台市は5ヵ年の計画である。そこには、自都市だけでなく「東北の復興とどう関わっていくか」という、牽引役としての視点がある。

中学生の文章が、復興ビジョンに載っているのは福島県だけだ。

「私たちは福島県富岡町の中学生です。今回の震災、原発事故により、やむなく故郷を立ち去りました。今まで一緒に過ごしてきた仲間、先生方、地域の方々と離ればなれになり、連絡がとりたい人がいてもとれない状況が続いています。(中略)この文章は仲間とメールのやりとりをしてまとめました。中学生の考え方では伝わらないかもしれません。こんな文章じゃ何も変わらないかもしれません。全国に友達が散らばりました。電話で声を聞くだけです。仲間に会えず毎晩泣いています。顔を向き合わせ話がしたいです。大人は『もう戻れない』『戻るには10 年かかる』と言っています。なぜ大人はそういうことしか考えられないのでしょうか。私たちは故郷に戻ります。いつか必ず戻るとみんなで約束しました。」

世界に知られるようになってしまったからこそ、世界に誇れるような街づくりをする。皆が戻れるように。福島の復興案からは、そんな覚悟をひしひしと感じた。

そういえば、国は? と後日ふと気づき、東日本大震災復興構想会議の提言書を読んだ。6月25日に発表されたものだ。題名がすぐに気になった。『復興への提言 〜悲惨のなかの希望〜』だそうだ。

「悲惨」。

東北に5月〜8月の3ヵ月いて、一度も、ただの一度も耳にしなかった言葉だ。

畑からガレキを取り除くボランティアをしていたときのことだ。お昼休憩中に
「ときどき、たいへんだあ、と思っちゃってね。」
「あらいけない。こんな言葉、使っちゃ駄目なんだった。」
いまはニッペリアの仮設住宅に住む高橋さんは、そう言って軽く笑っていた。

使うのをこらえて、自分を前向きに奮い立たせてもいいと思う。
使って、わあっと発散してもいいと思う。
言葉なんて、ただの手段だ。

さて、復興構想会議が「悲惨」という言葉を使った意図はどこにあるのだろう。

「悲惨」だとことさら言わなければいけないほど、みなの状況認識が甘いということか。それとも、われわれは「悲惨」のなかにいるというアピールだろうか。諸外国に、これだけひどい状況にいるんです、と泣いて同情を買うために?

店も工場も流されて、それでも「ボランティアで手伝いに来るよりも、なにか買ってよ。商売人だからさ」と冗談交じりに言って、青空市場に出展している店主を知っている。仕事を辞めて、小さな避難所を定期的に回って、物資を届けている人を知っている。生活より何より、わかめを守るために非常用電源をすべて冷凍庫にまわした工場長を知っている。

そんな彼ら彼女らに「悲惨」という言葉をぶつける。
意識の底上げや同情の拡大といった利益があったとしても、損失のほうが大きいんじゃないか?

まあ、そんな言葉、鼻で笑われるだろうけどさ。