「被災地」に行くことの意味。
−−−−−−−−−−−−−−−−–−−−−−−−−−−−−−−−−–
311から4ヵ月が経った。
ガレキやヘドロの撤去率は50%に満たず、危険区域と居住区・農地の線引きもまだ不十分だ。放射能の被害は、むしろ広がりを見せている。しかしそれでも、「壊滅」とすらささやかれている場所で、「食」を取り戻そうと懸命になっている事業者がある。
たとえば、南三陸町志津川の『かね久海産』。志津川は、高さ16メートルを超える津波に呑み込まれ、建物の被災率は60%を越える。特に海岸沿いでは、かたちの残っている建物は数えるほどだ。
『かね久海産』の高台にあった冷凍倉庫は、辛くも被害を免れた。そして、電気が復旧するまでの間は、発電機を冷凍のためだけに使った。自分たちの生活よりも優先して。
そうして守り抜いた、生わかめ・生昆布や海苔、削りたての花かつお・さばけずりなどの水産加工品――いまでは貴重な南三陸産だ――の水産加工品は、この仮設店舗で手に入る。
「何ヶ月もなにもしなかったら、お得意先ともども倒れてしまう」
名物であるウニの瓶詰めにラベルを貼りながら、須田専務はそう語った。
たとえば、山元町の『夢いちごの郷』。宮城県の東南端に位置する亘理郡山元町は、メディアに取りあげられる事こそ少ないが、海岸から1.5km以内の地域は新築の建物等が残存する程度で、ほとんどの建物が流出している。南三陸町の全壊戸数3,166棟に対し、山元町の全壊戸数は2,181棟だ。少ない被害では無い。
100軒以上あったイチゴ農園は、その9割以上が壊滅した。車両も機械もビニルハウスも直売所も苗も、すべて流されてしまった。
それでもいま、国道沿いに16アールの大きさの仮設営業所を建設すべく進めている。用地は自分達で探した。行政との話し合いを経て、着工間近だ。イチゴの苗も、蔵王の土地を借りて1,000本の株を育てている。花芽への分化には、低温に苗をさらす事が必要だが、そのための設備は破壊された。蔵王を選んだのは、平均気温が山元町に比べて低いからだ。
「イチゴ作ることしかできねえし」とは、イチゴ農家のひとり、菅野さんの言葉だ。
「イチゴだと、わざわざ遠くから来てくれるしね」とも。
もし、本当にこういった場所に足を運んだのなら、「壊滅」などという言葉は使わないだろう。
われわれ舞台ファームでは、毎月100名以上のボランティアを受け入れている。いずれも、東京発のボランティアツアー参加者だ。そして、津波被害を受けた周辺農家での泥かき等を手伝って頂いている。そのつど彼らに、帰ったら仙台の姿を伝えて欲しい、とお願いしている。
凄惨な有様も、立ち直りつつある現場も、平常通り営業している街並みも。何もかもがやられてしまったわけでは、ないのだから。
「わざわざ行く」
それだけでも、復興支援になるのだ。